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 “紙のシルクロード~サマルカンド”
プロローグ・物語の始まり
 「サマルカンドに行って見て欲しい。」と関係者から持ちかけられたは、今から5年前、ブラジル・アマゾンで貧困と環境をテーマにしたNGO POEMAがAmazonPaperを立ち上げるお手伝いをしている時だった。手漉きの紙は、中国を発祥とした温帯文化であるが、科学技術の発達と自然との共生と言う時代のニーズの中で東南アジアを中心に熱帯地方に普及して言っている。
 シルクロードの中継点、オアシス、サマルカンドペーパー、タレス川の戦いなどは、歴史に浅薄な知識しかない私でも耳にした事があった。紙の文化を持たないところで我流を展開することに何のためらいもないが、中国に隣接する中央アジアは、そう言う訳には行かない。紙の発達の歴史の中で極めて重要な場所だからである。
 サマルカンドは、UNESCOの世界文化遺産に「文化交差点」として登録されている。手漉きの紙は、まさにサマルカンドで八世紀以前ヨーロッパから中央アジアで紙として使われてきたパピルスやパーチメント(羊皮紙)と交差した。そして、交差して出来上がったサマルカンドペーパーは、そこからシルクロードの終着点スペインに向かって旅を始める。
 私は、4年前に初めてそのサマルカンドに足を踏み入れた。乾燥した空気と冷たい水、紙漉きをするのには、絶好の条件がそろっている。ところが、担い手であるKoni Ghil Merosに訪問して愕然とする。そこで作られていたのは、まぎれも無い和紙だったからである。
 仲間と相談した。何とかしなくちゃ。Samarqand Renaissanceを始めることにした。

(1)シオブ川
 ウズベキスタンの東側には、パミール高原からカラコルム山脈、天山山脈が悠然と連なり、その先には、タクラマカン砂漠が広がる。サマルカンドは、そのパミール高原の西に広がるアムダリア河とシルダリア河に挟まれたキジルクム砂漠にせり出したところに位置する。シルクロードの中間点、絶好の立地条件をもったオアシスである。
紙漉き工房NGO Koni Ghil MEROSは、サマルカンドブルー、真っ青な空にそそり立つモスクの青いドームで有名なレギストン広場から車で15分、コニギル村を流れるシオブ川沿いにある。シオブ川の水温は、年間を通して14℃前後、真夏でも雪の残るパミール高原、天山山脈からの伏流水が源流である。村では、稲作をはじめ穀物生産が盛んに行われている。最盛期には、川沿いに2000基もの水車が並び、そのうち400基は、紙原料の処理のために用いられていたという。川に沿って45分ほど遡るとホルトブロック村(サリ・オシヨ)に到着する。シオブ川の源流域である。水底から水は、こんこんと湧き出していた。いったい、地表に降り注いだ雪や雨がこの湧き水として生れ出るのにどれほど時間を要したのだろう。透通った冷たい水を口に含むと悠久の時に遊ぶタイムトラベラーになれた。

(2)タレス河畔の戦いとシルクロード
 サマルカンドでシルクロードの跡を見ることができないかと聞いて、赤面したことがある。砂漠の中に延々と続く道を想像してしまうのだが、絹の道は、交易ルートであって道路を示すものではないと説明された。考えてみれば、砂漠の上に書いたように道が作れるはずもない。キャラバンによる交易が始まる以前、中央アジアの遊牧民たちは移動を繰り返していた。この移動は、異民族間の接触を生み、時として衝突になったり物や情報のやり取りが行われていた。紙は、一世紀の後漢時代に中国で蔡倫によって発明され、751年にタレス河畔の戦いをきっかけに唐の捕虜兵がサマルカンドに伝えたというのが定説になっているが、それ以外にも説は、山のようにある。少なくても8世紀よりかなり古い時代から、中央アジアでは、遊牧民によって紙やその情報が伝えられていたのではないだろうか。では、唐の捕虜兵は、サマルカンドに何を伝えたのだろう。チンギス・ハーンに滅ぼされた旧サマルカンド、アフラシアブの丘にある博物館には、ネアンデルタール人から始まる歴史を見学することができる。古代から高いモノづくり技術力があったのだ。特に治金、焼き物、ガラスといった。高温の炎を操る技術が目を引く。紙の原料処理に用いられる硝石灰は、石灰岩を高温で焼いて作る。サマルカンドの高い技術力と紙を結びつけたのがタレス河畔の戦いだったのかもしれない。

(3)文房四宝と硬筆筆記具

 砂浜に出かけると自然とやりたくなるのが棒きれを使った落書きであるが、人類が何かを描くのに最初に使ったのは、指や手、そして棒だった。その棒をそのまま細くしていったのがペン(硬筆筆記具)、棒の先を叩いて柔らかくしたのが毛筆に進化していった。そして、中国、韓国、ベトナム、日本では、長い間、筆の中心は、毛筆であった。それらは、木簡、竹簡そして紙といった書く対象材料と深く関係していたに違いない。一方で、殷代中国や中央アジア、ヨーロッパでは、骨や甲羅、植物の葉などに先の細い硬い物で引っ掻いて字や絵が描かれている。そして、それらは、硬い筆記具が滑らかに表面を滑るように磨き仕上げられたパピルス、時間をおいてパーチメント(羊皮紙)として発達していく。紙が中央アジア以西で受け入れられ普及する為には、硬筆の使用に耐えられる工夫無しでは、難しい。サマルカンドのシルクペーパーの持っていた光沢は、ペン書きができる実用のためにあみ出されたに違いない。ちなみに毛筆では、墨を用いるが、現地で手に入れた紙に使用されていたインクは、分析すると植物の色素を使った染料だった。

(4)寄り道、アラブバンディ村
 冬にサマルカンドを訪れる人は、極めて少ない。いつもなら車でタシュケントから向かうのだが、体調を崩したこともあって急行列車「シャルク号」でサマルカンドに入った。車窓から見せてもらった冬景色は、ブルーの空とベージュの大地に咲く白い氷の花だった。冬にしか見る事の出来ない無条件の美しさに感動を覚えた。MEROSの新しい事業展開のためにキャラリーや厨房、作業施設の改修計画を相談する合間をぬって、サマルカンドから車で1時間半ほどのところにあるカシカダリア州アラブバンディ村に調査と手織の羊毛絨毯の研修をしている日本人を訪ねた。アフガニスタン国境までは、もう300kmである。
 原毛から糸を紡ぎ、数人がかりで織り込んでいく。勿論、全て手作業である。一見、単調な織にも見えるのだが、とてもたくさんの技法が駆使されているのだそうだ。お茶に招かれたので絨毯の上に座ってみた。地面の冷気を確実に遮断してくれる。実に温かい。冬にこの村を訪れる事が出来たことに感謝した。

(5)食い合わせ
食は、大きな楽しみでもあるのだが、ウズベキスタンに出かけて、お腹を壊したという話を、よく耳にする。私自身もずいぶん辛い経験をしたこともある。郷に入っては、郷に従えと現地の人たちの飲食の仕方を見せてもらうと湿潤な気候に住む日本人とは、ずいぶん違いがある。どんなに暑く喉が渇いても冷たい水は飲まずに、熱い緑茶、紅茶を飲む。お茶は、ウーロン茶でなくても腸にある余分な油を流してくれるのだそうだ。そういう彼らの食事は、私がスープに浮いた大量の油をスプーンで取り除いて食べるのに対して、彼らは、さらにスープに油を注ぎこむ。日本や中国には、昔から合食禁という伝承がある。天ぷらと氷水や西瓜は、その典型で、医学的にも確認されたものだ。でも、忘れてしまっていた。綿実油をはじめ植物性油と西瓜に、ギンギンに冷えたミネラルウォーターやビールの合食がお腹を痛めつける。魅力的で美味しいものは、たくさんある。気候に合わせて食文化は、大きく変わる。冷静に食を楽しむことも大切なことだと実感している。

(6)紙作りの今昔
 紙は、水に分散溶解させた繊維を平面状に凝集させ乾燥した物である。その工程は、素材となる植物の前処理、蒸解あるいは煮熟、叩解、溶解、抄造(紙)、圧縮除水、乾燥と進んで紙になる。
 現在行われている和紙の工程は、非常に特殊で9世紀頃に確立されたという。和紙は、原料となる植物の表皮近くにある靭皮繊維を長い状態のまま取り出し、水に分散溶解させる。長い繊維は、水の中でお互いに絡み合って解けない。そこで、繊維間の緩衝材として粘材を水に加え、分散溶解させる。繊維を粘材無しで溶かすためには、短く切断させてしまうしかない。9世紀以降に東洋で作られた紙以外、唐紙、サマルカンドペーパーを始め欧州紙や近代的な製紙工場で作られる紙のほとんどは、繊維を必要な大きさに切断して原料としている。
 この原料処理と溶解のさせ方で抄紙方法は、大きく変わる。和紙に用いられる長尺の繊維は、常時、道具である簀桁を揺らし続ける流し漉が用いられる。それ以外は、道具に微振動を加える程度で大きく揺すらない溜漉きが用いられる。抄紙方法と筆記用具とのマッチング等を考えれば、近代製紙の原型は欧州に求められ、更にそのルーツは、8世紀のアラブを経由して12世紀にはスペインにまで渡ったサマルカンドペーパーである。

(7)紙の発達
 普段、私たちが漉いている和紙は、原料処理の段階で刃物で繊維を切る事は無い。植物を構成する繊維は、もともとは、皆同じセルロース分子からできている。それぞれの植物は、セルロース分子を独特の大きさのセルロース高分子に構成させている。それがタンニンやリグニン、ペクチンと共に植物本体を形作っている。世界最長のセルロース高分子を持っているのは、大麻で、平均23cmと言われる。故に太古から衣類に用いられ、最古の紙の原料ともなっている。身の回りにある雑草の多くは、10μmである。日本の代表的和紙原料である楮は、平均1.5cmで誠に手漉き和紙に都合の良い寸法をしている。和紙の原料処理では、繊維自体を加工するのではなく、素材に合わせて一本一本を大事に取りだす技術が大切になる。作業がシンプルであるため、いわゆるさじ加減や見極めが必要となる。昔の和紙職人は、身の回りにある植物を片っ端から紙にする実験もしたらしい。一方、サマルカンドに端を発する西洋紙は、限られた植物から必要な紙を作るためにいかに繊維を加工するのか、時代が進むと早く大量に紙を作るという課題に対する繊維に対する顕微鏡的な加工技術研究が進んでいく。緑豊かな環境と乾燥した大地での紙に対するパラダイムの違い、その後の発達の仕方は、そのまま、文明の話につながっている。

(8)紙の活かし道
 サマルカンドが近代製紙のルーツとも言うべき重要な地であり、そのサマルカンドペーパーは、滑らかでしなやかで絹の様な光沢を持つ素晴らしい素材であっても、日常生活で活躍できる場は少ない。それは、その紙を元に改良され続けた紙があるからである。これは、日本伝統文化の一つである和紙の世界でも同様である。サマルカンドペーパーの活かし道を模索している内にワインラベルに行き当たった。
 一般にウズベキスタンのワインは、甘いデザートワインが主流である。ワインやブドウの故郷は、コーカサス地方グルジアあたりである。その昔、ワイン醸造は、酒というより、甘くて美味しいブドウジュースを長持ちさせるための技術であったようだ。だから、水やソーダ等で割って自分の好みの味にして楽しんでいたらしい。そんな、ワインの事を体感させてくれるワイナリーが、サマルカンドの中心部にある。訪ねて行くと偶然発見された100年以上昔に作られたというクモの巣とカビに包まれたひんやりとした地下2階ほどのところのワイン蔵に案内された。そこで、テイスティングさせてもらったデザートワインの味は、しばし、悠久のロマンに浸らせてくれた。

(9)21世紀のサマルカンド ‐ ペーパー復興
 砂漠に囲まれたステップ気候のサマルカンド、アムダリア川、シルダリア川に挟まれ、万年雪の残る山脈からの豊富な伏流水に恵まれたシルクロードの中間点サマルカンドは、有史以来、戦略の対象になってきた。穀物が生産できる砂漠の中の巨大なオアシスは、どの民族にとっても垂涎の地であったに違いない。中国で生まれ仏教文化であった紙は、ここでパピルスなどの中央アジアからヨーロッパにかけての書き物素材と技術的に混じり合い、現代製紙の基礎となった。しかし、その後も戦乱に幾度となく戦乱に巻き込まれ盛衰を繰り返してきている。その意味では、我々の今回の活動も何度目かの紙の復興という事になるのかもしれない。ただ、これまでと違うのは、サマルカンドペーパーを取り巻く状況が、かつてとは大きく異なる事だ。情報通信手段の発達、紙自体の進化で経済活動にそのままサマルカンドペーパーが入っていける隙間は見当たらない。しかし、この紙が無ければ、我々が普段使う紙は、ここまでの進歩を遂げていなかったのではないかと思う。現代製紙のルーツ。作りたい対象物に合わせて植物素材自体を選んで仕事ができた東洋の紙作りと栽培しない限り植物は手に入らず、そこにある植物に様々な加工法をもって様々な対象物を作ろうとした中央アジアから西欧にかけての紙作りの違いは、ものづくり、文明の哲学の違いをも生み出していると言っても過言では無い。そして、我々は、今、西洋近代文明の上に生活がある。貴重で大切なルーツとも言える存在を我々は、どう扱うのか、まさに、今が問われているのではないか、先進国と言われる世界中の皆さんに育て護って応援して欲しい。そんな思いを胸にサマルカンドペーパーの復元復興活動にひと段落を付ける事とした。
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